6/1は、きたまちエリアの戦国時代を訪ね歩くツアーでした。
午前中は、若草公民館で甲冑のお話を、甲冑研究家の宮崎隆旨先生にうかがう講座があり、これに参加いたしました。
知っているようで知らない話。
なんと奈良は甲冑の一大産地で、数多くの見事な甲冑が各地の社寺に納められ、今に伝わっているそうです。
平安時代末期から僧兵の需要があり、室町時代には奈良が甲冑の一大生産地になっていたことなどを文献から紹介され、大坂冬の陣の頃には441人の甲冑師がいたそうです。
「きたまちweek」での講座ということで、きたまち界隈の甲冑師を文献より拾ってくださいました。わずか400年前に、この辺りで戦のための甲冑を作っている具足屋がいたということ・・・・想像してみるだけでもわくわくします。
また、家康お抱えの甲冑師は、高天町の岩井与左衛門家で、二代目からは江戸に行き、幕末まで登用されたそうです。
奈良の甲冑師についてのお話の後は、戦国時代の個性豊かな兜の数々をスライドで紹介していただきました。(その写真は下段の「続きを読む」の後にたくさん掲載しています。興味のある方はどうぞご覧ください。)
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午後からの、元若草中学校教員の北村雅昭先生によるまち歩きツアーには残念ながら参加できませんでしたが、FBページでのレポによると・・・・
奈良市転害門観光案内所をスタートし、松永久秀(弾正)が戦国時代に築いた多聞城跡へ。若草公民館で模型や想像図を見せていただきながら、多聞城の概要について学びました。その後、いよいよ多聞城跡である若草中学校へ。東大寺や興福寺を見渡せる場所だったことを実感しました。
現在は道路になっている深い堀切跡を通って、奈良奉行所の与力や同心が住んでいた多門町、久秀に移転させられた眉間寺の礎石と伝えられる石のある聖武天皇陵、多聞城の一部だった光明皇后陵から、久秀が市を開いたという法蓮南二丁目へ。北村先生による生き生きとしたご説明で、戦国時代の姿が蘇り、いつも通る道が全く違って見えました。
さらに、村田珠光ゆかりの称名寺、戦国時代に市が開かれた高天市町、最後に久秀によって移転させられた西方寺で、貴重な資料を見せていただきました。
・・・・という内容だったそうです。
奈良では脚光を浴びにくい戦国時代の講座ゆえ、中々参加者が集まりにくかったのですが、あまり知らなかった戦国時代の奈良の話は大変興味深く、まち歩きツアーに参加できなかったことが悔やまれるくらいです。
この後の6/3の「時代別まち歩きツアー~近現代コース」も、充実した内容だったようで、「歴史のモザイクきたまち」らしい講座ではと、来年以降も続けていってほしいと思うのでした。
ではスライドから「戦国時代の甲冑」写真をどうぞ。
兜の上の異形の立物など、戦国武将は目立ちたがりが多かったようです。
変わり兜の立物は、ヘルメットの上に別の素材で作って被せているのですね。