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2011年8月31日水曜日

奈良町小寺巡礼ウォーク〜その③中将姫ゆかりの小寺

先日の続きです。
日曜日に参加した「奈良町小寺巡礼ウォーク」
①正覚寺 →②阿弥陀寺 →③十念寺 →④鎮宅霊符神社 →⑤西光院 →⑥元興寺小塔跡 →⑦安養寺 →⑧誕生寺 →⑨称念寺 →⑩高林寺 →⑪徳融寺 というルートの中で、今回は⑦安養寺 ⑧誕生寺 ⑩高林寺 ⑪徳融寺の、中将姫が生まれ育った4つのお寺をご紹介します。

⑦安養寺


    
中将姫開祖の寺で、かつては横佩よこはぎ堂と呼ばれていました。
これは中将姫の父藤原豊成が横佩右大臣と称されていたためです。
後に阿弥陀三尊像を安置してから「安養寺」と改められます。
こちらのお寺は山門から入って本堂を外から見学しただけでした。
毎年11月23日は多くの参拝者で賑わうそうなので
この日には堂内拝観等ができるのではないでしょうか。

⑧誕生寺


    
中将姫の父・藤原豊成の屋敷跡で、姫誕生の地と伝わるお寺です。
今回はこのツアーのために特別に本堂を拝観させていただけることになりました。本堂ご本尊は中将姫自作の「中将姫法如尼坐像」。
普段は本堂には入れませんが境内裏庭の見学は自由にできるようです。


裏庭には、中将姫が産湯に使ったと伝わる井戸↓や

庭の奥の極楽堂へ向う所に中将姫を浄土へと導いた二十五菩薩像が立ち並んでいます。二十五菩薩像の姿・・何だか可愛いらしい石仏ですね。


   
また極楽堂の床下には石仏がちょこんと立っているのが覗いて見ることができます。(極楽堂の扉は自由に開けて拝観できるのです)

この石仏は中将姫の両親が子を授かるようにと長谷寺の観音様へ祈願をしに行った帰りに、川に落ちていた石仏を拾って家へ持ち帰ったものだそうですよ。
毎年4/13、4/14には本堂が開扉されます。

⑩高林寺

本堂横の円墳は父・藤原豊成の墓と伝えられています。↑
ここも中将姫修道霊場で尼寺です。南都焼き討ちで焼失の後1534年現在地に再建されたのですが徐々に衰退し、1810年頃(文化年間)に寿保尼という尼僧によって再興されました。
こちらも普段は本堂への拝観はできないようですが、今回特別にお参りさせていただけました。毎年4月13日が中将法如尼御忌会式で、この日は入堂拝観がどなたでもできるようです。

⑪徳融寺

境内がとても広くて奈良町の一画の小寺というよりは風格のあるお寺の印象でした。緑も美しいです。


   

そしてこちらは藤原豊成と中将姫のお墓があるのでも有名です。

歌舞伎が公演される時には役者さんがこのお墓にお参りに来られるということです。
人形浄瑠璃「ひばり山姫捨ての松」などで、継母・照代の前から、雪降る朝、老松の下で折檻を受けるのが雪責めの場ですが、その老松と伝えられていた切り株が昭和30年頃まで境内の裏にあったそうです。

また境内奥の、数メートル崖上に「虚空塚」がありますが、照代の前が姫を突き落とした崖といわれています。


この日は本堂には入れませんでしたが、ご本尊は北条政子の念持仏と云われている阿弥陀如来像なのだそうです。また、観音堂には乳児を抱き上げた珍しい姿の子安観音像が安置されていて、こちらにはお参りさせていただきました。

・・・このような子安地蔵が安置されているお寺ですが、ここには継子いじめの舞台道具も揃っていて、そのギャップが不思議な気がしました。
でも多分、これは後世に歌舞伎などで上演される度に、継子いじめもエスカレートして創作の部分も随分あるからでしょうか。

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中将姫ゆかりのお寺はほとんど隣同士向かい同士くらいにかたまって立地しています。どちらかというと観光寺院ではないので通常拝観がむつかしいのですが、境内など自由に入れるところもありますので、奈良町散策の折にちょっと寄り道を楽しんでいただければと思います。

また最後になりましたが、今回のツアーのおかげで、普段入りにくいところの見学もでき、知ることができないようなことも勉強できとても有意義でした。ツアーを企画していただいたNaraniyosiさん、どうもありがとうございました!

ではこのシリーズ、次回は「こぼれ話こぼれ写真」編です。
(後日に続く)

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参考までに・・・
中将姫伝説: 中将姫は747年、右大臣藤原豊成(藤原南家・武智麻呂の長男)と紫の前との間に生を受けましたが、姫が5歳の時に母が他界したため、その後は継母に育てられました。姫は利口で美しく、9歳の時には孝謙天皇に召され琴を演奏したところ、非常に上手であったので、後には三位中将の位を授けられるほどになり、このことから中将姫と呼ばれるようになりました。一方、継母は姫をいじめ、ついに殺害を計画し、姫が14歳の時山に連れ出し殺すように家来に命じました。しかし家来は信仰深い姫を殺すことが出来ず、雲雀山(宇陀市菟田野区)で匿い育てました。翌年、山へ狩りに来た父豊成に発見され、再び奈良の都に帰ることが出来ましたが、度重なる辛苦に姫は世の無常を悟り、当麻寺に出家するに至ります。26歳の時、蓮糸を用いて一晩で当麻曼荼羅を織り上げ、29歳で生きながら西方浄土へと旅立ったと伝えられている中将姫説話は、中世以降、能や歌舞伎、浄瑠璃に多く描かれています。(なら・観光ボランティアガイドの会“朱雀”のHPより)