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2011年8月30日火曜日

奈良町小寺巡礼ウォーク〜その②歴史と由緒のある小寺

日曜日に参加した「奈良町小寺巡礼ウォーク」
正覚寺 →②阿弥陀寺 →③十念寺 →④鎮宅霊符神社 →⑤西光院 →⑥元興寺小塔跡 →⑦安養寺 →⑧誕生寺 →⑨称念寺 →⑩高林寺 →⑪徳融寺 というルートの中で、 ①正覚寺 ②阿弥陀寺 ③十念寺 ⑤西光院⑨称念寺という5つの寺院をご紹介します。

①正覚寺

こちらのお寺についてWikipediaでは「平安時代、鹿ケ谷の陰謀に参画した俊寛僧都が鬼界ヶ島へ流された後、島を抜け出し、ここに隠れてたという伝説が残る」と書かれているのですが、ツアー中にNaraniyosiさんが「実はこの情報は不確かです」とおっしゃって、この記事を書くにあたって当のお寺へお電話して確かめましたら、そういった伝説のお寺ではないということでした。検索すると「正覚寺」という同名のお寺が日本全国に複数ありました。

②阿弥陀寺

脇戸から入堂させていただきます。↑

奈良時代に光明皇后によって建立された日本最古の悲田院↑が
興福寺や南城戸町を経てこちらに移築されて残っています。
(悲田院についての詳しい説明はこのブログの下段に記します。)
悲田院の中に安置されているご本尊は「三躯一仏の観音」さま。
向かって右に阿弥陀如来を、左に薬師如来を手のひらに捧げ持ってらっしゃる珍しい形の観音さまで、扉の開いた所から覗いて見ることができます。
 
その他には奈良奉行大久保長安の供養塔が建っていますが
↑上の2枚の写真のどちらが供養塔がイマイチわからず・・・。

③十念寺

こちらは、鎌倉時代に西大寺中興の叡尊上人に師事した忍性上人によって創建された大変由緒のあるお寺です。
本堂は享保期の再建で
金毘羅堂、愛染堂などが棟続きになっています。↓



地蔵堂のおしろい地蔵↑は
願掛けした人が成就した時に白粉を塗ったそうで、
おおらかなお顔をされたお地蔵様でした。

境内に敷き詰められている石↑は「金石」といって
今では採れなくなっている大変硬い石で、奈良の高円山の奥の東山から採った石だそうです。

鐘楼近くには忍性菩薩五輪塔があります。↑

⑤西光院

こちらのご本尊は弘法大師の裸像(通称「はだか大師」)で普段は拝観できないのですが、この日は特別に拝観させていただきました。
(※特別開扉は毎年4/20〜4/30の10日間です。)
勿論、裸形のままではなく着物を着てらっしゃいます。
その着物の着せかえは10年に一度だそうで、今年は7年目になるのだとか。ちなみに着せ替えた後、古い着物はご住職が身につけられるのだそうです。
裸形の弘法大師さまは鎌倉青蓮寺とこちらの、日本で2体のみだそうです。青蓮寺の弘法大師さまの写真が置いてありましたが、お顔立ちが全然違って、こちらの弘法大師さまの方がおっとり柔和なお顔でした。
また西光院は元興寺の子院でしたが、現在は華厳宗の寺院となっていて、お寺の中には東大寺の清水公照師の絵や書があちこちに・・・。
(参考までに:「奈良の三裸形」は璉城寺と伝香寺です。)

⑨称念寺

鎌倉時代に重源上人によって開山。
この辺り一帯に江戸時代初期、遊郭が造られ、井原西鶴の「好色一代男」にも書かれた竹格子のある色街として賑わい、遊女死亡の際には引導寺となったそうです。
境内の墓所には江戸時代の遊女のお墓も残り↓

          
墓石には墓を建立した男安吉の名前も。↑
また、松尾芭蕉の「菊の香や奈良には古き仏たち」の句碑が境内に建っていますが、これは県下最古の芭蕉の句碑だそうです。↓


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阿弥陀寺の悲田院についての説明:
悲田院は奈良時代に光明皇后によって興福寺の境内(現在の奈良女子大の近所、半田町あたり)に建立されました。1532年 南都土一揆での興福寺炎上に伴い悲田院も焼失し、仏像は南城戸町に移されます。1656年に阿弥陀寺四世が悲田院を再建し、その後300有年に渡って近辺の人々の信仰を集めていました。その後、堂宇が荒廃し阿弥陀寺境内に再度移築されたということです。
注:その南城戸町の悲田院があったところがこちらです。
  
この空き地は現在は「ならまち郷土館建設予定地」として長年放置されたままになっているということで、この空き地の存在は「ABECCO-NARARA」さんのブログのこちらこちらに詳しく書かれています。

では続きは「その③中将姫伝説の小寺」へ・・・**