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2018年3月8日木曜日

「不退の行法」最大の危機を救った寛秀

毎日新聞奈良版に隔週の水曜朝刊掲載の西山厚先生の「奈良の風に吹かれて」。昨日3/7は、お水取り「不退の行法」の最大の危機を救った寛秀かんしゅうについてでした。

(写真では読みにくいかもしれませんので以下要約します)
東大寺二月堂修二会(お水取り)は、奈良時代以来、一度の中断もなく続けられている「不退の行法」で、今年で1267回を数えます。
しかし断絶の危機はこれまでに何度もあって、最大の危機は430回目の治承5年(1181年)、東大寺が平氏に焼き討ちされた翌年でした。
この時、山の上にある二月堂は無事でしたが、大仏殿を焼いた火の手は湯屋と閼伽井屋も焼き、大仏殿は焼け落ち大仏さまも上半身を失い、東大寺伽藍の大部分が焼失したので、東大寺は、今年はすべての法会を中止すると発表し「お水取り」も実施しないことになりました。
ところが、この時、寛秀をはじめとする11名が異論を唱え反対したのです。寺が復興したら再開したらいいではないかという執行部に対して、これは「不退の行法」だと寛秀は反論。両者の主張はそのまま平行線をたどり、最終的に東大寺は中止すると決めましたが、それなら寺と関わりなくやると、すでに72歳になっていた寛秀は決意。
本行の初日(2月1日)になって新たに4人が加わり、15人の合力で、430回めの修二会が始まったのです。湯屋は焼け、風呂がなかったので、氷を割って川の水を浴び、身を清めて二月堂に参籠しました。
こうして、東大寺の決定に従わなかった寛秀たちのおかげで、二月堂の修二会は「不退の行法」であり続けているのです。
5日と12日に読み上げられる過去帳の、鎌倉時代の初めの箇所に、「湯屋閼伽井屋作つくれる寛秀大徳」とあり、寛秀は、焼けてしまった湯屋と閼伽井屋を再建したことがわかります。
この治承5年の経験から、東大寺は二月堂の修二会を明確に「不退の行法」と位置付け、たとえ他の法会は中止しても、二月堂の修二会だけは行う慣習ができたのです。
・・・・と、ざっとこのようなことが書かれていて、二月堂修二会を守った寛秀の功績を、もっと顕彰すべきではないかと結んでおられます。