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2012年2月25日土曜日

東大寺ミュージアム特集展示「二月堂修二会」



二月堂修二会は大仏開眼の年(752年)に始められ今年で1261回目。
「不退の行法」として一度も途絶えることなく続けられてきました。
その間には幾度となく存続の危機があり、中でも最大の危機は
1667年の行法中に起きた二月堂の炎上、焼失。お堂がなくなり
必要な道具類もほとんど失い、継続困難な状況に陥りながらも
中断されることなく三月堂で続行されました。

東大寺ミュージアム特集展示「二月堂修二会」では
この炎上時の様子を克明に記した「二月堂修中練行衆日記」(重文、期間中に入れ替え有り。ブログの下段に追記あり)が見られます。全文を読み解くにはわかりにくい部分もありましたが、文字を追っているだけでも、二月堂の炎上、焼失を目の当たりにした人々の生々しい気持ちが伝わってきます。

他には焼け跡から救い出された「二月堂焼経」(重文)や
二月堂再建のための設計図などが展示されています。
焼失からわずか2年後には再建されているのですから
修二会行法継続への人々の熱意は大変なものだったのですね。

東大寺ミュージアムの開館時間は
修二会期間中(3/1〜3/14)9:30から19:00までに延長されます。

トップの画像は東大寺ミュージアム前に展示してある「籠松明」


        
12日の夜に上がる「籠松明」は根付きの竹の先端に、杉の葉やヘギ・杉の薄板で籠目状に仕上げた松明で、長さ8m、重さ60kgにもなります。
その迫力ある大きさを間近でご覧になって下さい。

「籠松明」は1日から4日までの毎朝、童子さんが少しずつ部品を作って、8日の朝に組み立てられます。この様子を一昨年のブログでアップしていますのでよかったらご覧下さい→

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展示の中に「東大寺寺中寺外惣絵図」という江戸時代の絵図があり
我が町内「北御門町」も載っているのですが
建物は五劫院のみで後は田畑のようでした。
ただ北御門町の名前の由来通り、五劫院の角には「北大門」の記載があって、東大寺の北のご門があった所ということが確かめられました。
当時は「北之御門村」ということでした。

追記:
練行衆が修二会期間中に起きた出来事を書いた日記「二月堂修中練行衆日記」ですが、2/28〜3/14の期間は平氏の「南都焼き打ち」(1180年12月)の様子を記した日記が展示されます。
日記には「28日に奈良坂、般若寺近くに僧兵が引き上げたところ、平氏が村に火を放ち、東大寺、興福寺まで燃えていった」などと描写されていて、こちらも拝見するのが楽しみです。
また、27日まで展示中の、二月堂炎上時の様子を克明に記した「二月堂修中練行衆日記」は3/15〜4/1の期間に再展示されます。