奈良公園一帯に2万本の灯りがゆらめく「なら燈花会」。
奈良は今「燈花会」で大変な賑わいですが、本日は、
先週 8/1に行われました「幻燈会」の話題を記事にします。
「幻燈会」のロウソク点灯は夜になってからでしたが
この日は、お昼に若草公民館で記念講演が行われました。
講師はエッセイストの中島史子さん。
「松永弾正の胸の内」と題して、中島さんの視点で見た
多聞山城主 松永弾正久秀についてのお話を伺いました。
::
若草中学校が建っているこの場所に、戦国時代、
多聞山城(たもんやまじょう)というお城が建っていました。
織田信長は多聞山城をまねて安土城を作り、豊臣秀吉の大阪城にも
この建築方法が採用されたくらいりっぱなお城だったのですが、
創建からたった15年で織田信長の手によって壊されてしまいました。
今は、残念なことに当時の面影は何も残っていません。
この多聞山城の主だったのが「松永弾正久秀」という武将。
主君を殺し、将軍を殺し、東大寺を焼いた悪人と評された人物は
実は、宣教師がその美しさを感嘆するほどの築城の名手であり
奈良や堺の茶人達と茶の湯を通じて交流する文化人でもありました。
この多聞山城の茶室でも何度か茶会が設けられ「つくも茄子」という
茶入れや「平蜘蛛」という茶釜などの名器も披露されています。
永禄8年正月の多聞山城での茶会では、千利休の名も見え、
弾正自身が一流の茶人であったとことが窺えます。
講師の中島さんご自身もお茶の世界に身をおいてらっしゃるので
美意識の高い茶人が悪人なはずがないという持論でお話は進みます。
例えば、東大寺焼き討ちの件。これは
お寺を大事にしなかった三好三人衆が東大寺大仏殿を陣地にして
回廊を火薬庫としていたからだということを指摘されました。
戦の真っ最中に兵火が大仏殿におよび、消そうという余裕もなく
燃え広がったのではと推察されてました。
弾正自身は、大和の北にこの山城を築城した際に
北の守り神を指す多聞天に因み、多聞山城と名付けたことからも
仏教に深く帰依していたのではと、そのような人物が自分から
大仏殿を焼き討ちにするはずがないと、お話されました。
興味深かったのは、中島さんの故郷佐賀県だったら
もしこのような歴史が残っているのなら
もっとここが一大観光地になっているだろうという話でした。
たった450年前の出来事なんて、奈良では歴史の一こまに過ぎないこと。1300年以上前のものがたくさん残っているので
多聞山城という価値に真価を見いだすこともなく忘れ去られているのが
残念なこととおっしゃってました。
なるほど、そうですね。私もこの多聞山城の麓に住んでいなかったら
きっとこれほど興味も持たなかったことと思います。
信長の垂涎の的だった大名物の「つくも茄子」が、ここ多聞山城に
かつて存在していたことや、利休もここでの茶会に招かれていたこと等
もっと松永弾正や多聞山城について知ってもらえるように
地元に住む者として考えていければ・・・と中島さん。同感です。
トップの画像は、若草中学校の階段下から見た大仏殿方向の風景。
多聞山城をロウソクの灯りで表現した「幻燈会」も今年の11回を
もって一旦お休みとなるようです・・・。
::
余録:
大名物「つくも茄子」の、その後の運命は・・・。
松永久秀に渡る前は、室町幕府三代将軍義満秘蔵の唐物茶入れとして
その後、代々将軍家に伝えられていたものが、八代将軍義政の時に
寵臣山名政豊に与えられ、15世紀末になって、義政の茶道の師である
村田珠光の手に渡ります。珠光が九十九貫文で購入したことから
「つくも」と名付けられた茶入れは、その後も所有者を転々とし
その度に値段が跳ね上がっていって、久秀が購入した頃は一千貫の値が
付いたといわれています。
久秀は、足利義昭を擁して上洛した織田信長の前には抗すべくもなく
断腸の思いで、この茶入れを信長に献上し、配下になっています。
信長が本能寺で倒れた時、この茶入れは本能寺に持ち込まれていて
焼け跡から奇跡的に発見され、その後秀吉の手に渡ります。
秀吉から秀頼に伝えられ大坂城で愛蔵されていたのが、大坂夏の陣で
再び兵火に掛かり、戦後徳川家康の命で焼け跡から探し出されたものの
かなり破損しており修復のため漆接ぎの名工藤重藤厳の手に渡ります。
以後藤重家に代々伝えられたが、明治になって三菱財閥の岩崎弥之助氏
の所有となり、現在は東京世田谷の静嘉堂文庫美術館に保存されている
そうで・・・何とも言えない数奇な運命を辿った茶入れ。
言葉を変えれば、時の権力者とともに、その権力者が滅びても
戦火の中から不死鳥のように生き延びて、今の世に伝えられた茶入れ。
いつか静嘉堂文庫美術館へ行って見てみたいと思いました。
ちなみに、もう一つの名物「平蜘蛛の茶釜」の運命は・・・。
松永・三好の乱に敗れた久秀は、信長に至宝の茶道具を持参して
詫びを入れ、多門山城は取上げられたものの 信貴山城は安堵されます。
しかしまた懲りずに天正5年に信長に反旗を翻し、最後
信貴山城に滅んだ時、自らの手で「平蜘蛛の茶釜」を砕いたと伝えられています。
::
暑い夏の一日、地元の公民館での講演会を何気なく聴講して
思わぬ歴史の行間を垣間見ることができました。