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2017年3月10日金曜日

入江旧居で堀池春慶氏のお話を伺う*

入江泰吉旧居で「入江泰吉と伝統行事」を学ぶ会に参加しました。
講師は東大寺三役の一つ、前の「小綱しょうこう」を勤められた堀池春慶氏で、「小綱」役から見たお水取りのお話を伺いました。
聞き役は旧居コーディネーターの倉橋みどりさんです。
まず「小綱」とはどのような職種でどのようなことをするのかというところからスタートしました。
配布資料(下の写真↓)より・・・二月堂修二会参籠衆に、練行衆と並んで「三役」があり、その中の一つが「小綱」となります。三役は得度はしているが戒を授かっていないという半僧半俗の「法師ほっしの位」だそうです。そして「堂童子」と「小綱」を勤める家は代々決まっているのです。「堂童子」は稲垣家、「小綱」は堀池家。(ただ、堀池家に伝わる資料によると、古くは一軒の家だけではなかったようです。)
ここ↑にも、かつては「算数さんずの小綱」「行事の小綱」「木守こもり」それぞれ別役であったと書かれています。
では、修二会ではどのようなことをされているのでしょうか?
おおまかに言うと物品の手配や法会の会計などですが、その他に12日の局の場所割などもあり、それにちなんで、ここで興味深い資料↓を見せていただきました。
これは「局分配」というもので、聴聞される人々が局に入る場所割のようなものでしょうか。江戸時代(宝永6年1709年)の記録で、驚いたことに、12日のではなく平日の局分配だそうです。それぞれムシロ何枚分のスペースが割り当てられているということで、平日からすごい人数の聴聞者が詰めかけていたことの記録となります。
この資料の西の局のところを拡大してご覧いただきますと↑
なんと!局の外(お賽銭箱のあるところ)にもムシロを敷いて聴聞されていたのです。堀池さんのおっしゃるには、その戸外のところの柱に戸板をはめられるようになっていて、夜には臨時で堂内になっていたということです。
「以前はこんなに多くの聴聞者がいなかった」とよく云われていますが、もっと昔の江戸時代には、平日もお参りされる方がすごく多かったのですね!
で、このような平日の局分配を行っていたのは江戸から戦前までではないかと推察されていましたが、今も「小綱」の仕事である12日の局分配の資料も見せていただきました。
上の写真↑は戦後、昭和の局分配。下↓は明治時代の局分配。
その他に、物品の調達としての仕事で、松明の竹や、藤蔓、灯芯、ヘギ板、南天の実などの調達に苦心されていること。(ヘギ板用のサワラは手に入らなくなっている。)
12日の籠松明用の竹は「山城松明講」などからの寄進で用意されるのですが、ふだんに上がるお松明10本分の竹とその予備の竹10本、併せて20本の竹は、周囲27cm、長さ7mのまっすぐな竹を用意するのですが、近年なかなか揃えるのがむつかしいそうです。(毎日の竹は使いまわしをされていることを知りました。)
また須弥壇を荘厳しているお壇供の分配も練行衆四職は50面、平衆は40面・・・など決まっていて、その壇供支配も仕事だそうで、ちなみに真空パックは「森奈良漬店」にお願いされているそうです。
その他、米や油の調達なども仕事で、米に関しては戦中戦後に非常に苦労され、食作法で供される白米一人5合が2合になり、しゃもじが立たなかったなどの逸話も。
こうした物品の手配の他に、人の手配もあり、これもむつかしい仕事であることなどお話いただきました。
堀池さんが初めて籠られたのは昭和52年、大学生の時だったそうで、新入として2/15に別火入りする日が大学の試験中だったこともあり免除になって、2/20に試別火入りされたそうです。
初めて籠った年にお父様から渡された、行中の注意書きの私日記のことから、6年前に息子さんに代を譲られた時の気持ちなども最後にお話いただきました。
練行衆のお立場とはまた違った視点での、修二会に関わるお話。
大変貴重なお話を伺うことができ、どうもありがとうございました。
会が終わって、外に出れば春の気配の東大寺境内。
風は冷たいのですが、春の訪れを感じたひとときでした。

余談ですが・・・
以前に上司永照師に教えていただいた「紙手」の手配なども、小綱さんのお役目だと伺ったことがあります。
この時(2012年)ちょうど息子さんに代かわりされた年だったのですが、若くして著名な画家さんに依頼されること、コンタクトを取れることが羨ましいと思ったことを思い出しました。