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2012年5月15日火曜日

笠置寺へ*

奈良国立博物館での「貞慶」展を鑑賞する前に、貞慶さんが 後年
活動の拠点とした笠置寺と海住山寺に行っておきたいと思ってました。
海住山寺にはまだ行けてませんが、先だって
3月末に笠置寺に行ってきた時の写真などを、今頃ですが・・・。
その前に、お寺でいただいた「笠置寺略記」を簡単に記します。
笠置寺の創建は古く、すでに2000年前から笠置山の巨岩は信仰の対象となっていたそうです。
実際に建物が建てられたのは1300年前。
東大寺の実忠和尚とその師良弁僧正によって、笠置山の大岩石に仏像が彫刻され、その仏を中心として笠置山全体が一大修験行場として栄えます。
平安時代後期、世の末法思想流行とともに大磨崖仏は天人彫刻の仏として非常な信仰を受け
鎌倉時代に解脱上人貞慶が笠置寺に活動の拠点を移すと、笠置山は宗教の山、信仰の山として全盛を極めます。
しかし、1331年、倒幕計画に失敗した後醍醐天皇を笠置寺に迎えたことにより、攻防一ヶ月ついに笠置山は全山焼亡し(元弘の戦)
以後室町時代に少々復興するも、江戸時代中期より荒廃
明治初年には無住の寺となります。
では、このパンフレットに記載されている通りに
笠置寺修行場めぐりをしてみましょう。(一周800m、所要時間30分)

向こうに見えるのが正月堂。東大寺二月堂の前のお堂です。

正月堂の横に本尊弥勒磨崖仏があり
その前には十三重石塔が建っています。


本尊弥勒磨崖仏の礼拝堂で正月堂とも言います。
東大寺二月堂修二会の第一回目は この正月堂で営まれましたが
実忠和尚創立の建物(現在の大師堂のある所に建っていた)は
元弘の戦で焼失し、こちらは室町時代に再建されたものです。

本尊弥勒磨崖仏。ものすごーく大きい!
元弘の戦などの戦火で表面が焼け落ちてしまっています。

正月堂の床下を見ながら脇道を歩くと


千手屈。お水取りを始められた実忠和尚がこの修行場で行中感得されたと伝わります。
また、大仏殿建立の折り、木津川の水量が少なく資材運搬に支障が出た時に、実忠和尚がここで雨乞いの修法を行い大雨を降らせ無事大仏殿が建立できたという故事にちなみ、以後、大仏殿の修理の折には、ここで無事完成の祈願法要が執り行われるのだそうです。

伝・虚空蔵磨崖仏。
弘法大師によって造られたと伝わる虚空蔵磨崖仏。

胎内くぐり。
修行場入りする前には滝で身を浄めるのですが笠置山には滝がないため
この岩をくぐり抜けることによって、身を浄めたそうです。

太鼓石。たたくと音がするのだそうです。


かなり山の上、ここから見える景色にしばし疲れも忘れます。

ゆるぎ石。後醍醐天皇が鎌倉幕府から奇襲を受けたところです。
この石は奇襲に備えるため武器としてここに運ばれたそうですが使用されませんでした。この石は重心が中央にあり、人の力で動くため「ゆるぎ石」と言われているのだそうです。

平等石。江戸時代には月見の場所だったそうです。

蟻の戸わたり。


二の丸あと。

貝吹石。元弘の戦の折、勤王軍の士気を高めるために、この岩上で盛んにほら貝が吹かれたと伝わっています。


行在所あとへの石段。
後醍醐天皇行在所あと。(標高290m、笠置山山頂)

宝蔵坊あと。この日訪れた時はまだ桜も咲いていませんでしたが
桜や紅葉の頃はさぞかし綺麗なことでしょうね。

大師堂。実忠和尚建立の正月堂跡地に建っています。

椿本護王宮。

本尊仏香炉
こちらは本尊磨崖仏前に置かれていた香炉です。
解脱鐘(重文)
東大寺俊乗坊重源上人が貞慶に送った鐘です。

余談ですが ・・・笠置寺に小学校の遠足で訪れたことがあります。
宝蔵坊跡のある公園の青楓が見事だったのが子供心に印象に残っていて
遠足の思い出の絵を描く時に、先生が「燃えるようなもみじでしたね」と仰って、「燃える=赤色?」と、緑色の楓がどうして赤色に表現しなきゃいけないのか不思議だったことを今でも強烈に覚えています。

その後、奈良に住まうようになって、笠置寺はお水取りを始められた実忠和尚にご縁深いところと知り、いつかまた訪れたいと思っていた所でした。

この日は念願叶っての訪問でしたが
大変急なカーブの多い山道で車の対向もしにくい道でしたので
運転に自信のある方でもどうぞご用心してお出かけ下さい。