「奈良きたまち」のイメージが『歴史のモザイク』と表現されるのも
それぞれの時代が折り重なって「きたまち」の歴史を作っているからでしょうか。
その きたまちの『歴史のモザイク』の中に
平安時代の王朝歌人として名高い小野小町も登場します。
奈良を訪れた際に、きたまちにある「威徳井」のことを
歌に詠んでいるのです。
写真では読みにくいですが、「威徳井」の項に書いてあるのは
押上町東側人家の傍にあり。又従弟井とも書く。
むかし小野小町 奈良を見めぐりける時、此の水をむすびてよめる。
「したしきが同じながれや汲みつらん おとどひの子やいとこゐの水」
此の歌 小町が詠みしと云い伝えり。
然れども撰集になし。後人考えあるべし。
この「威徳井」の水、かつては名水として有名だったのですが
昭和のはじめの道路拡張工事で、吉城川の橋の南側から北側に
井戸枠だけが移されたのだそうです。
「かつては川の南にあった」のが地図からもわかりますね。↑
(江戸時代に作られたこの地図『和州奈良之絵図』は東が上になっています。)
トップの画像が、川の北側にある押上町自治会館の片隅に移された
「威徳井」の井戸枠です。
こちらが押上町自治会館の南を流れる吉城川。↑
さて、小野小町の歌の意味ですが ・・・
吉城川と威徳井の水が、同じ流れでおとどひ(兄弟)やいとこゐ(従弟井)のようであるという意味で、従弟井が威徳井となったといわれています。
ふ〜ん。
ここに小野小町さんが立ち寄ってらっしゃったのですね・・・。
このあたり、平安時代はどのような町並みだったのでしょうか。
雅びな王朝歌人が少し休憩を取ってらっしゃった処・・・と
色々想像してみると楽しいですね。
「威徳井」については、増尾正子さんの「奈良の昔話 」にも
書かれた箇所があります。 (といっても井戸の威徳井ではないのですが)
江戸時代後期に発行された奈良の観光絵図『和州奈良之絵図』について
この絵図は北が上でなく、東を上にして描かれていることを取り上げ
次の文章が続きます。そこに出てくるのが「威徳井」さんのこと。
・・・それにしても、私達は地図は特別な但し書きが無いかぎり、上が北だと信じていたのに、昔は東を上に描いたのだろうかと思って、以前、威徳井さんという方から頂いた奈良を中心とした道路絵図を出してみた。威徳井さんは江戸時代から転害門の南東の角で「いとく井や孫三郎」という旅籠屋(はたごや)を経営しておられたお家だ。
三月号に「いとくゐ餅」さんのことを書いた時「井戸の側で大威徳明王を感得されたお坊さんが『いとくゐ餅』と命名してくださった。この家は名字も『威徳井』と云う。」と書いたら「いとくゐ餅さんは屋号で、苗字は永本さん。私の家が威徳井です。」とお電話を頂いた。お詫びに伺ったら逆に歓待してくださっ て、この古地図や木版刷りの千社札など、貴重なものを頂戴した。千社札には、京大阪 はせ(長谷)かうや山(高野山)追分辻と書かれている。
転害門南東角のこの場所は、東大寺詣でに最も便利なだけでなく、京や大阪見物、長谷詣でや高野詣での追分の辻という、宿屋にとって最高の立地条件の地にあることをアピールしている。
いとく井屋さんがサービスに渡していたという地図を見ると、驚いたことに南が上になっている ・・・
さて、ここに登場する「いとくゐ餅」の威徳井屋さんについては後日に続きます。