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2011年12月7日水曜日

もしも「多聞城」が今も残っていたら*



歴史に「if」ということはないのかもしれませんが
もしも、もしもと想像すると面白いものがあります。



奈良倶楽部の前の通りをバス停の方に向かうと正面に見えるこんもりとした小山。現在、若草中学校が建っているこの小山に、かつて戦国時代に「多聞城」というりっぱなお城が建っていました。

多聞城は、日本で最初に四階櫓を持った近世城郭の先駆とも言われるお城で、織田信長の安土城のモデルになったとも言われています。宣教師がその美しさを感嘆するほどの豪華絢爛なお城でしたが、創建からたった十数年で織田信長の手によって壊されてしまい、現在は残念なことに当時の面影は何も残っていません。

この多聞城が、もしも今も現存していたら・・・。
そうだったらまた奈良のイメージも違っていただろうし
多聞城のお膝元の我が町もどのような活気を見せていただろうと
色々な「if」を想像してみると興味がつきないものです。



先日、奈良女子大学で多聞城についての勉強会がありました。
講師の北村先生は、多聞城が建っていた若草中学校で教鞭を取った後、定年退職後に独力で多聞城や城主松永久秀について文献から勉強された方で、ご自分は歴史学者でも城郭研究家でもありませんとおことわりして、お話が始まりました。

まず最初に「多聞城」と「多聞山城」の二つの呼び名があって、どちらが正しいのかということからお話がスタートします。

「多聞城」も「多聞山城」もどちらも間違っていない呼び名であるが、奈良市では「多聞城」という呼び名で統一していて、最近は「多聞城」が一般的になりつつあるということなので、昨年夏に書いたブログでは「多聞山城」と記していましたが、今後は「多聞城」としてここでも書いていきます。

北村先生のお話は大変わかりやすくて、スタートからぐいぐい引き込まれて、予定時間を超過して2時間たっぷり聴き入ってしまいました。

宣教師ルイス・デ・アルメイダや、神道家吉田兼右の多聞城訪問記など
残された史料から多聞城を読み解くと
近世城郭の条件を満たす「高石垣造り・瓦葺屋根・礎石建物」をクリア
しているので(歴史学者の間では安土城が近世城郭の嚆矢とされるが)
多聞城こそが近世城郭の始まりではないかと意義づけされましたが。

もし、そうだったらこれはえらいことです。
ただ、そのえらいことが起きていないのは
発掘調査からその3条件全て揃って確認できないかららしいのです。

戦後すぐにこの場所に若草中学校が建てられたのですが
その時はまだ「文化財保護法」成立前のことで
発掘調査も行なわずにブルドーザーで地均しして工事に入ったのです。

そのため正確な発掘ができず終いで
多聞城の城郭史上における意義については明言できるものがなく
今も歴史の行間に埋もれたままでいるという訳なのです。

江戸時代の築城では当たり前になる堀切や多聞櫓など
諸々のことが、中世の終わりに、この奈良の地で
時代の先端を行く築城が行なわれていたという事実。
ただ一つ、石垣の遺構が確認できないために、歴史の表舞台に躍り出ることができずにいる多聞城・・・。
こんなお話を聞くと、つい情緒的になってしまうのですが
何とか多聞城にスポットライトを浴びさせてあげたい!と思うのが人情というものです。

ただ、松永久秀が多聞城の後に改修した鹿背山城跡の発掘調査が今後行なわれる予定で、ここから多聞城の様子も解明していくのではと、北村先生も淡い期待を寄せておられます。

それから、多聞城について興味を持たれる方が最近は随分多くなって、多聞城跡を訪ねた後、そこには何も無いので、地元の若草公民館へ寄って何か資料はないかと尋ねる人もいらっしゃるので、若草公民館では多聞城についての簡単なリーフレットを配布しているとのことです。興味のある方は是非一度お訪ねになって見て下さい。

講演時間が超過して最後は聞くことができなかった「ならまちと多聞城」のことなど、次回機会があれば参加したいです。北村先生のお話を伺って、多聞城についてもっと知って、多くの方にも伝えていければと思いました。ありがとうございました。



昨年の夏に、若草公民館でエッセイスト中島史子さんの視点で見た、多聞山城主 松永弾正久秀についての講演会があり、その時のブログ内記事はこちらです。

写真は全て講演会があった奈良女子大で12/4に撮影したものです。