転害門観光案内所で第1回地域文化探訪講座が開かれました。
地域にお住まいの古老に、この辺りの歴史などお話していただく会で
ゲストは転害門南隣にお住まいの威徳井義一いとくいよしかずさんです。
今年97歳の威徳井さん、身だしなみもダンディで若々しく、お話もしっかり、そしてユーモアに溢れていて、とてもその年齢には見えません。
威徳井さんのお家は明治の終わり頃まで転害門南東角で
「いとくゐや孫三郎」という屋号で宿屋(旅籠)をされていたということで、りっぱな看板↑も見せていただきました。
他にも古文書などの古いもの珍しいものもお持ち下さいました。
威徳井さん宅に残っていたこの木札↑
表は、参詣客の月当番の宿を示して↑裏には「享保5年」の文字↓。
享保5年=1720年=今から293年前には宿屋をしていたという証拠となる木札。威徳井さんは、大仏殿が再建された元禄時代に爆発的に参拝客が増えて、その頃には宿屋を始めていたのではないかと推測されています。(いや、それにしても年号の数字などがすらすらと出て、とてもしっかりされていて驚きました。)
他には、紀州藩とのやり取りが記された連判帖(安政5年十月)や
明和九年(1772年)の宗門御改帖など↓
宗門御改帖にはこの辺り一帯の家族構成や検地の図面なども記され、貴重な歴史資料となっています。
また、紀州藩御用立願いには、紀州藩老中一行をこの辺りの旅籠で賄いをしてもてなしたが、経費がかかって負担分の調停を奉行にお願いしたことなどが書かれているそうです。いや〜、生々しい歴史の証言がすごいですね!特に、安政5年9月に起こった『安政の大獄』の直後の10月の記録ですから、紀州藩老中ご一行が京都へ上る時にこの京街道を通って、ここで道中泊まられて接待したのに、期待外れな報酬で、旅籠の連中が集まってケンケンガクガク・・・判子を押していない旅籠もいて、足並み揃ってないところが・・・ひゃ〜妄想が止まりません!
そして同じ宿屋稼業の私が一番感動したのがこれ↓地図の木版です。
版を刷ってお客様に手渡していた地図のコピー↓
「観光のお客様に地図を渡して」が今も昔も変わらないことに感動!
写真ではわかりにくいのですが、この地図の中心は奈良。
奈良から北の方向の京都が下にあり、大阪は右の方に、図面の左上には伊勢神宮がしっかり描き表されています。奈良を中心に伊勢や吉野や大阪や京へ行く道中の宿場や、そこまでの距離も記されて、旅人にとても便利で重宝な地図をオリジナルで作られていたのです。
さて、江戸時代には何軒もの旅籠が軒を連ねていた京街道筋でしたが
明治時代後半になって、「いとくゐや孫三郎」もですが、多くの宿屋が廃業し、昭和の始めに残っていた旅館は、正岡子規も泊まったことがある「対山楼」(その跡地にあるのが日本料理の「天平倶楽部」 さん)一軒だけになったそうです。
これは、明治の廃仏毀釈で奈良のお寺への参詣客が減ったこと、明治20年以降に国鉄近鉄などの駅ができて客の流れが変わったことなどが理由ではとお話されていました。(実際、近鉄が出来る時に、奈良駅の場所を、一条通りに近い大仏駅のところにしてほしいという要望を出されたそうです。)
その他には「威徳井」という名の由来や、「はやと石」の拓本のことや従軍体験のお話などもあり、1時間半の長い時間をたっぷりと楽しませて下さいました。
最後に、長寿の秘訣は「お洒落」であることですと、同席の息子さんがおっしゃって「なるほど!お洒落は大事」と同感。素敵でいようと心がけることは大事ですよね。
宿屋つながりの話も興味が尽きませんでしたし
古文書から読み解いた江戸時代の話も臨場感溢れて楽しかったです。
ありがとうございました。