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2013年12月3日火曜日

内侍原町の八嶋神社*

先日、鍋屋交番きたまち案内所でボランティアをしていた時のこと。
居合わせた人たちと、映画「先祖になる」の感想をちょっとお喋り。
映画の中のけんが七夕の場面を思い浮かべながら「地域に若者が根付かないと、いくら町おこしをしても一過性になってしまう」と きたまちエリアの高齢化を憂う話から、手向山八幡さんや祇園さんのお祭りに若者が参加していないという話になり、そこから「手向山八幡の前身は八嶋神社いうんや」という話を小耳に挟んで、鍋屋交番からすぐ近所にあるというので、帰りに立ち寄ってみることに。
内侍原町の交差点を称名寺の方に入って、しばらく行くと
左手にこのような路地が、称名寺よりも手前にあります。
この奥が八嶋神社のようです。
称名寺の前の道は舟橋通りへの抜け道としてよく通っているのですが、今までこの路地に気づいたことがありませんでした。
奥まで進むと門があって、その中に鳥居が見えます。
 鳥居の奥には、神社というよりは祠といった雰囲気のお社が祀られていました。

お社の両横には、二本のりっぱな大木があって驚かされます。
大木の樹齢を想像すると小さな神社ですが、歴史は古そうです。

帰宅してから『奈良町風土記』の内侍原町のページを調べると
八嶋神社のことも載っていましたので、以下に抜粋しておきます。

内侍原町は古くから梨子樹数株繁茂していたので梨子原と云われていた。
東大寺の鎮守神として宇佐から八幡神を勧請した時、新宮をここに造り神宮をなしたことは「続日本紀」の天平勝宝元年十二月の条に書かれている。
その後、春日祭の時、上卿はじめ諸司の使内侍等の宿舎となってから内侍原と書くようになったと「江家次第」の春日祭事に書かれている。
現在こうした遺跡はまったく詳かでない。八嶋八幡宮のあるところがその跡と云われている。
現在 八嶋八幡宮と呼ばれている神社は、古くは内侍原八幡宮であったようであるが、八幡の幡の字が悪筆で書かれていたので、これを嶋と読み、遂に八嶋となったと「奈良坊目拙解」に古老の話としてのせている。

ふむふむ、古くは梨原八幡神社と称していたのが、悪筆で読めずに幡を間違って嶋として八嶋神社となったとな。
ふーむ「悪筆で」というところに親近感を感じてしまいますね。
でも創建はやはり聖武天皇の頃、私が知らなかっただけですが、そこここに歴史の重みが感じられる奈良のまち。まだまだ知らないところも多いので、また好奇心全開にして探索しなくっちゃね。