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2017年1月22日日曜日

入江泰吉旧居で*

1月22日、「入江泰吉旧居」にて『入江泰吉を語り継ぐ〜水門町と東大寺の人々編〜』という講座がありました。
今回の講師は東大寺持宝院ご住職上司永照師。
上司さんといえばお水取りにまつわるお話も聞けるかな・・・という淡い期待も持ちながら(昨年の佐藤道子先生の講座の時も淡い期待を抱いておりましたが)参加致しました。
旧居コーディネーターの倉橋みどりさんとのやりとり。
ほんわかしながらも、かなりツボを押さえた進行とお話のやり取りは、打ち合わせなしとおっしゃりながらも、その加減が絶妙でした。
まずは、上司永照さんの中の入江先生の思い出や印象などを。
ご存知のように、入江先生と大変親交の深かった上司海雲師は永照さんのおじいさまの弟にあたる方。子供の頃から、入江先生は東大寺境内でよく見かける近所の大人の人という印象で、よく知ってはいるが話したこともなく、入江先生ご自身が話をされているのを聞いたこともなかったそうです。ただ常に紳士の格好で品格が有りかっこよかったという印象も持っていたそうです。
さてここに、入江先生最後の写真集「東大寺」があります。
この中にもお水取りの写真がたくさんあって「その写真をご覧になってどのように思われますか?」という倉橋さんからの質問に、たまたま開いたページの中に「衣の祝儀」の様子を撮影された写真があり
「この撮影をされていた時に、たまたまお使いがあって参籠している父のところに行って、ここに自分がいた」ということを思い出され(すごい偶然!)、「父が紹介してくれ、初めて入江先生にご挨拶したのもこの時だった」というエピソードをお話しされました。(ただ、その時入江先生はシャッターを押すことに集中されていて、自分は場違いな、すごい緊張感を感じたそうです。)
そして、これが「衣の祝儀」だったとわかったのは何年も経って自分が参籠してからで、その当時(高校生の時)には、わからなかったそうです。
最初の倉橋さんからの質問に、「入江さんの写真集を見て修二会とは厳格なものだと、あらためて思った。」「子供の頃の、海雲おじさんが生きていた時代の懐かしさを感じる」など。

次に「入江先生の仏像の写真を見てどうでしょう?」の質問には、「お堂で見るより先に入江さんの写真の仏像を見ていた」少年だったそうで
東大寺ミュージアムができて、そこに日光月光両菩薩さんが入られた時に、ふっと入江先生を思い出したとおっしゃる上司さん。
上司さんが子供の頃に、家からお使いに出かけた道中で入江先生がシャッターを押さずにじーっと待っている姿をよく見かけたそうですが、帰ってきた時にもシャッターを押さずに何かを待っておられて、一日中じっと何か、光なのか雲なのか,その一瞬を切り取るために待っておられる姿を、ミュージアムの中の仏像を見て、思い出したと。

・・・それはどういうことかというと、お堂の中では、季節や一日の時間によっても光や空気が違って仏像が動いたように感じることもあるが、ミュージアムではその仏像が一番美しく見えるような照明の工夫がされているけれども動いていないように感じた。入江さんは、お堂の中で一瞬動いている仏像を切り取り、その瞬間を写真にされたのではと思ったということでした。

仏像も風景も、動いているという瞬間は、いつ行っても撮れるものではなく「出会いの妙」があるのではと、ミュージアムに入った仏さまを見て感じ、その時に初めて入江さんの写真について、こういうことなのかと感じたそうです。
入江泰吉旧居の表札。今はレプリカですが、元は上司海雲師が書かれたもので、その本物を見せていただきました。
永照師のお父様 永慶師は毎日写経をされてとても几帳面な字を書く方だったけれど、海雲師の字はそれと全然違って、また言葉の使い方とかいいなぁと思うとお話しされていました。
その他にももっと色々諸々なお話を伺い、大変有意義で楽しい、あっという間の1時間だったのですが、最後に倉橋さんより「お名残り惜しいのですが、日本の平和のためにもこのあたりで終了とさせて・・・」という締めの言葉があり、その時に思い出したようにおっしゃった上司さんの言葉が、今日のこの会の最後の締めくくりにふさわしい素晴らしい言葉でした。

「日本のために」「人類のために」「○○国のために」とよく言われるが、東大寺の理念である聖武天皇の詔はそうではない。
「誠に三寶の威靈に賴りて乾坤相泰かに萬代の福業を脩めて動植咸く榮えんことを欲す」
(まことにさんぽうのいれいにたよりて、けんこんあいやすらかに、ばんだいのふくごうをおさめて、どうしょくことごとくさかえんとほっす)
「動植ことごとく共に栄えんことを欲す」という東大寺の理念こそが、これからの世に伝えていかなければならないことなのではないか。
修二会もそうであり、また東大寺はいつもそうあるかということを海雲さんは言っていたのではないかと。
そして、厳しい修二会の行の中の人間的なところを入江さんは撮っていたのではないかと、お話を結ばれました。