開催中の『大和の暮らしー昭和20年~30年代ー』で展示されている
昭和の一コマと現在の様子との、びっくりするような変貌ぶりに
驚きの声やツッコミの声やらを賑やかに上げながらの鑑賞会。
そんな中でふと目に留まった3枚の写真が
どれも奈良倶楽部から徒歩数分以内の所で撮影されたもの!
場所を聞かなかったらわからないくらい変わった所や
ほとんど今と変わらない所、
そして私も同じ所を以前に撮影していた所など。
奈良倶楽部の「ご近所」が、入江さんのレンズを通してクローズアップされたのが嬉しくって、写真集も購入しました。
では、その3枚の写真と、現在の様子をどうぞご覧下さい。
写真集より。こちらはどこかわかりますか?
奈良倶楽部にご宿泊いただいた方なら、ほとんどの方がこの風景を目にしているはずなのですが・・・。
答は→→ 奈良倶楽部の最寄りのバス停「今在家」のある交差点です!
写真集の説明によると・・・「南都の石橋と新石橋」昭和31年9月撮影
今在家町の佐保川にかかる新旧二つの橋である。左手は江戸時代築造の石橋で、般若寺、京都へと続く昔ながらの街道筋。右手は、昭和15年、紀元2600年奉祝行事にあわせ京都から橿原神宮まで新しく国道15号線として道路整備され、その時に「新石橋」が架けられた。戦後は国道24号線と改称、南北の幹線道路として利用されたが交通量が増加し、渋滞解消のため旧市街の西方に奈良バイパス線が整備され、国道24号線から国道369号線に変わった。
と、あります。2枚目は、ほとんど今と変わっていない所。
この写真集の表紙にもなっている写真ですが、こちら。
奈良倶楽部の一本南の通りにあるHさん宅です。正倉院方面へお散歩に
お出かけされていたら、記憶に残っているかもしれませんね。
たまたまこの写真を撮っていたら、Hさんのお向かいのYさんが
通りにいらっしゃって、しばし写真を見ながらおしゃべりして
色々教えていただきました。Y家の庭先の松の木が写っていることや
写真の中の男の子と女の子がどなたであるかとか・・・。
道路に写っている向いの家の屋根の影から、「瓦葺き屋根」と「茅葺き屋根」を組み合わせた大和棟のお宅であったとか・・・。参考までに奈良倶楽部の向いの「細田家住宅」も大和棟です。(細田家住宅の写真はこちらとこちらに。)
昭和30年代の写真には家の前に幅広い溝があったことがわかって
写真集を同じくご近所の方に見せていたら、奈良倶楽部の前の道路も昔はこういう風だったということから、また話が大盛り上がりして、何と昔は奈良倶楽部の前の通りを柳生行きのバスが運行していたのですって!(これにはびっくり!)
さて、3枚目はこちら。
写真の題名は『大仏殿を望む』(昭和31年)とだけあって
撮影場所が書かれていません。でも私はすぐにピンときました。
だって、同じような所から撮っているのですもの。昨年7月のブログにも 書いていますが、ここは我が「北御門町」を裏側から見た風景なのです。入江さんの写真では北御門町の裏を流れる佐保川の北に田園風景が広がっていますが、勿論今は田んぼではなく住宅地になっています。
そういえばもう一枚、私も同じような風景を撮った写真がありました。
多聞山城があったところ、若草中学校あたりから撮影されたもので
甍の波が美しいですね。
こちらは、若草中学校の下の方から撮ったもの。
御蓋山を撮りたかったのですが、電線はじめ、美しくない建築物が多かったのでかなりトリミングをしました。その電線を画像処理したのがこちら。↓
( この写真は昨年5月のブログに載せています。)
今回は奈良倶楽部の町内やご近所に絞って写真集から紹介しましたが
他にも奈良のあちこちの風景が一冊の写真集の中に収められていて
記憶の底に眠る、私の中の奈良の思い出が蘇って懐かしかったです。
・・・なんて書くと「えっ?」と思われるでしょう。
実年齢をはっきり書くのは好きではありませんが
昭和34~36年に3~5歳だった幼少期の私は、割合と身体が弱かったために、しょっちゅう奈良の病院へ通っていたのです。
36年に妹が生まれているのですが
私の記憶の中にあるお出かけ先の奈良に妹の姿は出てこないので
多分5歳までの記憶ではないかなとぼんやり思っています。
病院の帰りに東向き商店街でお土産を買ってもらうのが本当に楽しみで、また当時の私にとって奈良はすごく大きな街で、物珍しいものも多く、その頃の印象に残っている場面を、奈良に住むようになってから又ふっと思い出すことがあるのです。
(余談ですが、昭和40年代前半の3年間も奈良の中学校に通学していたので、写真集の中には懐かしいと思う場面がたくさんありました。)
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写真集は奈良倶楽部の図書室に置いていますので
よかったらご覧下さい**